[日活ポスター:シ] 実録ジプシー・ローズ

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【9146】 [日活ポスター:シ] 実録ジプシー・ローズ
1974年制作
監督:西村昭五郎
主演:ひろみ麻耶
☆名作! そして、ひろみ麻耶の代表作!
■ジプシー・ローズとは?
1935(昭和10)年、福岡県久留米市生まれ。母子家庭で育つ。父親についてはまったくの不明。一説では彼女はハーフだとも言われている。
1949(昭和24)年、長谷川一夫の新演技座のショーチームの博多公演を見て感銘を受け、そのままチームとともに上京。一座の小道具主任の家に住まわせてもらいながら、浅草の舞台に出るようになった。
常盤座、金竜館、浅草公園劇場、横浜オペラ座などに出演。次第に人気を博するようになっていき、ついに1953(昭和28)年、当時のストリップレビューの最高峰、東劇バーレスクにトップ扱いで出演。戦後、アメリカの指導の下に生まれた日本のストリップショーで、ジプシー・ローズは日本のマリリン・モンローと言われ、最初の大スターになった。彼女の踊りの特長は、日本人離れした腰のグラインドにあり、当時の男性たちを唸らせ、熱狂させた。
しかし、絶頂にあった彼女にある事件が起こる。
東劇で『シェーン』の特別試写会が行われ、そこに皇太子殿下が出席されることになった。が、御用車が会場を間違えて隣の東劇バーレスクの入り口に車を着けてしまった。そこには彼女が股を広げた写真が正面に飾ってあったのだ。当時の松竹の社長の大谷は大きな衝撃を受け、すぐさま東劇バーレスクでのストリップ興行を中止してしまう。
皇室絡みの事件に巻き込まれホームグランドを失ってしまった彼女だが、それ以外にも、年令による衰えや、次々現れる新進スターたちに徐々に押し出されるようになり、1957(昭和32)年頃より地方のドサ廻りが始まり、失意から酒浸りの日々を送るようになっていく。
そんなどん底の彼女を支えたのは、彼女の生涯ただ一人の恋人といわれた正邦乙彦だった。何度かの自殺未遂などもあったが、乙彦の愛情から立ち直った彼女は、やがて乙彦と共に山口県防府市にバーを開く。和服をきりっと着こなした彼女のママは評判も良く、繁盛したという。
1967(昭和42)年、急性心臓麻痺により死亡。
32歳の短い生涯だったが、ジプシー・ローズの名は、戦後を猛スピードで生き抜いた一人の女性として、裏戦後史の中に今も燦然と輝いている。
☆在庫数 あと3個
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